コロナ禍では、ある言葉から連想する意味が変わるということが起こっています。
集合体を意味する「クラスター」、集まりや深いつながりを意味する「密」、距離や道のりを意味する「ディスタンス」、相手のことを大切に考えるための「エチケット」、状態の濃さを表す「濃厚」などは、今、別の意味が付与されて流通しています。とりわけ、ネガティブ(否定的)な意味合いが付与されているように思えます。
こうしたことは、時代の流れの中では必然のことですが、学生と言葉を介しながら学問をともにする大学教員・研究者は、その変化への感度を高めておく必要があります。
私が担当する後期の授業で、実地学習(学外研修)という「現場」で学ぶ機会を持ちました。
そこで、改めて感じたことは、私たち教員は、学生と常に「濃厚接触者」であるべきだということでした。
学生たちが里山学習を体験する姿を見ていて、かれらがどれほど苦心しているか、その反対に、どのように表情を移ろわせているか、何に力を込め、どの行為に集中を注いでいるか、どのタイミングで息抜きをしたのか、それらを直に見ることで、私たちは彼ら自身の学習実感に少しずつ近づいていくのだと思います。
教育には人やモノとの「濃厚接触」は不可欠・・・そうであれば教員は常に子ども・生徒・学生の「濃厚接触者」を目指すべきである。
学生と「密」に関わり、人間らしい「エチケット」を基調とした、学びあいの「クラスター」を組織し、学生が主体性を発揮するための適度な「ディスタンス」を保ちつつ、「濃厚」に関わる者でいたい。
4月からの入学生、そして在校生にも、そのように関わろうと、山の自然に囲まれて思いました。
閉塞的な学びの空間から飛び出す学習を、この大学でまだまだ追究します。